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連載:♪ロンドン演歌道(えんかみち)♪ Vol.4 ~ 英国唯一の演歌歌手 望月あかり~

望月あかり ~英国唯一の演歌歌手~

2003年来英。ロンドン在住。2009年にイギリスで演歌歌手としての活動を開始。

2012年にオリジナル曲「ひとりDEナデシコ/霧のロンドン・愛」でCDデビュー。

ロンドンを中心に、国内外で演歌を披露。2011年以降は津軽三味線奏者の一川響氏とのデュオで日本の民謡曲を中心としたパフォーマンスやワークショップを行なっている。

2017年12月 テレビ東京系「世界ナゼそこに日本人」に出演。

2018年4月 BBCラジオ「The Verb」にゲスト出演し、演歌を披露。

日本の音楽の魅力を伝えるアンバサダーとして日英両言語で活動を続けている。

Vol.4「学生の街、ケンブリッジでの悲喜こもごも・・・。」

前回の記事(Vol.3)に記した通り、アメリカに行くと決めていた私の決断を揺るがした、「イギリス英語」の壁。その壁に立ち向かうべく、イギリス行きを決めたわけですが、進学先であるケンブリッジのカレッジで専門分野を極めるためのファンデーションコースに通うことになったため、私は音楽コースを選択することにしました。小さなころから演歌を歌っていた私は単純に、洋楽も歌えたらいいな、かっこいいだろうな、と思い、その決断をしたのですが、初日のスケジュールを見て目が点に・・・。ピアノ、声楽、音楽理論・・・と私が思っていた内容とは大きく異なり、クラシック中のクラシックな授業は初日で完全にお手上げ状態でした。ピアノは楽譜が読める程度のおこちゃまレベルのため先生に苦笑され、オペラ専門の声楽家の先生が目の前に現れた時には未知の世界に圧倒され、自己紹介するだけで精いっぱいという状況でまともな授業にはならず、これではまずいと感じ、すぐに校長先生のもとに直談判に向かったのです。

「これは私が学びたいコースではないのですが。もっと実践で歌ったりステージに立ったりしたいです。他にコースはないですか?」

「・・・。そうだねぇ、同じ値段だから演劇のコースにすれば?ステージに立てますよ。」

「なるほど。じゃあ、それで!」

という何とも短く端的な会話を交わして家に帰り、考えました。

「演劇ね、演劇・・・。演劇!?英語できないのに演劇!?」

知らぬが仏とはまさにこのことで、何も具体的に聞くことなく(正確には英語で詳しく聞く能力がなかった)、演劇コースへの変更が決まり、校長先生からはオーディションに行くように告げられ演劇コースの先生のもとへ向かいました。その厳しさや難しさを知る前に、飛び込んだ演劇の世界。あらかじめ英語力がないことを分かってくれていた先生は、無音の演技で表現しなさいと私にオーディションのチャンスをくれました。もともと演技をすることへの抵抗はなく、むしろ人前に立つことは好きだった私は、精いっぱい自分が思う演技を先生に見せ、できる最大限で取り組みました。

結果は合格。

音楽コースを継続しなくてよい安堵感と同時に、英語が話せない私がどうやって演劇の授業を受けていくのかの不安がどっと押し寄せてきました。クラスメートは全員ネイティブスピーカー。さらにみんな俳優を目指しているというだけあって美男美女!これ以上ない英語環境の中、私はただただ毎日の授業に出席するということだけ念頭において、学校に通い始めたのです。

私が全く何の知識もなくスタートした演劇コースは、実はRADA(英国王立演劇学校)から協力を受けており、RADAで指導している先生が教えにきていました。RADAといえば、アカデミー賞受賞俳優のアンソニー・ホプキンスを輩出した英国内で最も権威のある演劇学校であり、そんな学校から先生が教えに来てくれていることがどれだけ幸福なことか、その当時の私にはその価値があまりわかっていなかったと思います。RADAの先生は、シェイクスピア作品の指導をしてくださいましたが、シェイクスピア以前に私は英語ができない状態だったので、それはそれは手のかかる生徒だったはずです。それでも先生は根気よく指導をしてくれました。シェイクスピア作品に使われている英語は古典英語なので現代英語とは違い、新たな言語を習得する感覚で取り組む必要がありました。日本語がまったくわからない外国人が、能や歌舞伎の世界に飛び込むような無謀な挑戦で、私は頭の中がはてなマークでいっぱいの毎日を送っていました。

その当時の私の英語力の低さを物語るのが、普段のクラスメートとの会話のすれ違いです。

「Are you hungry? (お腹すいた?)」と聞かれ、

「Yes(うん)」と答えた私。

しかしその後、

「What would you like for your lunch? (お昼ごはん何がいい?)」と聞かれて、

「Yes(うん)」

と答えて会話が止まることがしばしばでした。すべてイェスで答えることで何とか会話を前に進めたいという意思があったわけですが、何よりも、相手の言ってくることを聞き返したり、相手の提案を否定することが怖かったのです。そんな私を受け入れてくれたクラスメートと先生の懐の深さには、今となっては本当にありがたかったなと思っています。

ケンブリッジでの1年は、アップダウンの連続で過ぎていきました。そして、2年目の私が次に選んだ場所こそロンドンだったのです。ロンドンで私が何を勉強したのか、ケンブリッジの1年で何を学ぶことができたのか、その話はまた次回。

つづく

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