ロイヤル・オペラ・ハウス(ROH)の『ナブッコ』


ヘブライ人たちが祖国への想いを歌う©2021 ROH. Photography by Bill Cooper

(コーラスはマスクを着用)



Nabucco at the Royal Opera House

ロイヤル・オペラ・ハウス(ROH)の『ナブッコ』


公演初日のこの日、幕前にROHのオペラ監督であるオリヴァー・ミアーズが登壇すると、場内は凍りついた。「コロナ感染拡大が原因による資力不足の為」にこのあと続く二回の上演は中止と発表されていたので、更にはどんな不吉な布告をされるのかと観客が息を呑んだからだ。するとオリヴァーは本日の公演はコロナ感染拡大防止の為にコーラスは全員マスクをして上演すると報告する。客席の一部からはブーイングが飛び交ったがその直後には賛同者たちが拍手を送る。そうして今シーズン、オミクロン株感染拡大に最も影響を受けた演目となった『ナブッコ』は始まった。2013年に名指揮者クローディオ・アバドの息子、ダニエル・アバドが演出した作品の2度目のリバイバルだ。『ナブッコ』はヴェルディの3作目のオペラで旧約聖書から題材を取った古代メソポタミアの実在の王ナブッコ(ネブカドネザル王)の物語だ。バビロニア国王のナブッコはヘブライ人を全滅させようと試みる。そして自らを神と名乗ったためにヘブライの神の怒りを買い、錯乱状態に陥らされ、その間にアビガイッレに王の座を乗っ取られる。一方ナブッコの娘フェネーナはヘブライ人と恋に陥り、ユダヤ教に改宗する。アビガイッレがフェネーナを含むヘブライ人の全滅を目論むも娘を助けたいナブッコは改心し、それがヘブライの神に認められ力を取り戻すと共にヘブライ王に返り咲き、アビガイッレは自害するという話だ。


コーラスが命であるこのオペラにおいて彼らがマスクを着用していては、声が通らないのではないか、息苦しいのではないかと心配したが、マスクのハンディキャップを感じさせないほどコーラスの声には勢いがあり、観客席に響き渡った。ヘブライ人たちが祖国への思いを歌う有名な合唱曲、”Va pensiero”「行け、我が想いよ、黄金の翼に乗って」では特に団結した情熱が伝わってきた。中央に円になり寄り添ったコーラスのその姿は頭上から差し込むライトが印象的で脳裏に焼き付いている。更には彼らのマスクは地味な色合いの20世紀風の衣装に溶け込んで違和感を感じさせなかった。


このコーラスの素晴らしさは指揮者ダニエル・オーレンによって生み出されたと言っても過言ではない。というのは水から飛び立つ白鳥のように勢いのある彼の指揮は心情が込められ吸引力があり、コーラスは指揮に鼓舞されているのが観客席から一目瞭然だったからだ。コーラスだけでなくロイヤル・オペラ・ハウス・オーケストラからも切れの良い音楽をオーレンが導き出しているのは手に取るように分かった。


アリソン・チッティのデザインした灰色の舞台は薄暗く見た目には退屈な感じがした。しかし、バビロニア国に囚われたヘブライ人が横たわる砂地が灰色の石に囲まれて、その石が背景幕に繋がって伸びる様はベルリンにあるホロコースト記念碑を彷彿させたり、またバビロニア兵たちがヘブライ人の墓を破壊する戦いの場面などは背景幕の投影がエルサレムに3000年以上も存在するオリーブ山の墓地の破壊を想起させたりと背景幕の有効な使用法が鮮明だった。20世紀のセッティングの中に歴史的事実を巧みに加味していたといえよう。


歌手達はロシア人が多くそのため発音がロシア風なのが目立ったにも拘わらず歌唱力は抜群で観客を感動させた。それぞれの歌手の声のバランスが良く取れていて他重唱も聞く耳に心地よかった。なかでも第3部の中のアビガイッレを演じたリュドミラ・モナスティルスカとナブッコを演じたアマルトゥフシン・エンクバットのデュエットは迫ってくるようなアビガイッレとソフトなナブッコの声のバランスが良かった。ウクライナ人のソプラノ歌手、モナスティルスカの演技は終始、アビガイッレの狂気じみた冷酷で恐ろしい感じが描写されていて観客の目を惹きつけた。ただ、モナスティルスカは恐ろしい感じを出すことに精を出しすぎたからか、時にコロラトゥーラなど繊細さに欠けているような気がした。モンゴル人のバリトン歌手、エンクバットはオペラが進行するにつれて本領を発揮していき、最終幕でヘブライの神への祈りを歌った時は格調高く誠実な感じが心を打った。フェネーナを演じたロシア人メゾソプラノのヴァシリーサ・ベルザンスカヤはアビガイッレとは対照的に純粋で清楚な感じがよく出ていた。音は正確かつ歌声も滑らかだった。またヘブライ人の大祭司ザッカリアを演じたロシア人、バス歌手のアレクサンダー・ヴィノグラードフの理性的だが人情味ある感じは『椿姫』のジョルジュ・ジェルモンを彷彿させた。


上演数が減ったり、キャストに変更があったり、舞台上でマスクをしたりと今シーズンの『ナブッコ』はコロナが原因で波乱万丈だったが、それでもその公演は歌手陣とコーラス、指揮者そしてオーケストラによって見ごたえのあるものになっている。ストリーミングで世界のどこからでも見られるのでぜひご覧あれ。



2022年2月19日英国時間午後11:59までロイヤル・オペラ・ハウスのストリーミングで視聴可能16ポンドhttps://stream.roh.org.uk/checkout/nabucco/purchase



ナブッコを演じたアマルトゥフシン・エンクバット

©2021 ROH. Photography by Bill Cooper



アビガイッレを演じたリュドミラ・モナスティルスカ

©2021 ROH. Photography by Bill Cooper



フェネーナを演じたヴァシリーサ・ベルザンスカヤ©2021 ROH. Photography by Bill Cooper



ザッカリアを演じたアレクサンダー・ヴィノグラードフ©2021 ROH. Photography by Bill Cooper