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ロイヤル・オペラ・ハウス(ROH)の『ドン・ジョヴァンニ』


ドン・ジョヴァンニ(アーウィン・シュロット)の「シャンパン・アリア」のシーン

©ROH 2019. Photo: Mark Duet

ロイヤル・オペラ・ハウス(ROH)の『ドン・ジョヴァンニ』

Don Giovanni by Mozart at the Royal Opera House (ROH)

一昨年前までROHのオペラ監督であったキャスパー・ホールテンが2014年に演出した『ドン・ジョヴァンニ』が去年に引き続き3度目のリバイバルを果たした。『ドン・ジョヴァンニ』はご存じの通りモーツァルトのダ・ポンテ・オペラの一つで、世界中で最も上演数の多いオペラである。因みにオペラの世界におけるデータを集積している「オペラベース」によれば2018/2019年の統計では世界中で9番目に上演数の多いオペラだそうだ。(注1) 自然と数多くの『ドン・ジョヴァンニ』を観てきたが、私はホールテン演出によるこの作品が大好きだ。

まずエス・デヴリンのデザインした二階建てのセットが壮大かつ絶妙だ。いくつもの部屋に分かれており、それがゆっくり回転することによってそれぞれの場面を作り出す。ある多重唱では歌手達一人一人が違う部屋で歌うことによって各々の気持ちが異なることを強調していた。また、顔のないミイラのような人間たちに階段を上り下りさせることによってマウリッツ・エッシャーの有名なリトグラフ『相対性』の世界を実現していた。それはエッシャーが『相対性』で表現したかった道徳的な引力の法則に当てはまらない世界で、まさしくドン・ジョヴァンニ(アーウィン・シュロット)に抵抗したくても惹きつけられてしまう女性たちそのものを示唆していると理解できる。それに加えてルーク・ホールズによって創作されたビデオ効果にも魅せられた。ドン・ジョヴァンニが早口そしてプレストのテンポでシャンパン・アリア (Fin ch'han dal vino) を歌う場面では、エッシャーの絵のようにも見えるらせん階段に女性の名前を映し出したビデオを回転させながらドン・ジョヴァンニの周りに投射している。その名前は彼が征服した女たちで、それを記したレッポレロ(ロベルト・タリアヴィーニ)の手帳を映し出しているようだ。場面全体が幻想的で美しく、ドン・ジョヴァンニの頭の中で仮面舞踏会においての彼の策略が巡っているさまを表しているかのようで、すべてに辻褄が合い妙に納得してしまった。オペラ最後、ドン・ジョヴァンニが騎士団管区長(ペトロス・マグラス)に地獄に連れていかれる際の真っ赤な色の投射は、地獄の炎を暗示しているようでもあり、恐怖を感じて気持ちが高ぶった。アニヤ・ヴァング・クラックの創作した1840年頃を意識した衣装は上品で好感が持てた。

そしてこの日は何よりも歌手達が素晴らしいとしか言いようがなかった。まずタイトルロールを演じたアーウィン・シュロットがかっこよすぎて文字通り目がくらくらした。セクシーで、魅惑的な彼には手練手管で女心をくすぐり誘惑していくプレイボーイのドン・ジョヴァンニがどんぴしゃり似合っていた。シュロットがドン・ジョヴァンニならば裏切られて、傷ついて、頭ではだめだとわかっていても魅了されてしまうドンナ・エルヴィーラ(ミルト・パパタナシュ)の気持ちがよくわかる。青いスーツもよく似合い、踵を返すその颯爽とした姿に胸がキュンとした。レポレッロを演じたロベルト・タリアヴィーニは、歌唱力は優れていたが、堂々としすぎていて小間使いとしての滑稽さや哀れさが足りないと感じた。ドンナ・アンナを演じたマリン・ビストレムは、貴族としての気高さと潔さの表現が上手で、その上見た目にも端麗で色っぽかった。彼女が「お分かりですわね、のアリア」 (Or sai chi l’onore) を歌っている時は亡き父を思い、思い詰めている様子に凄みを感じた。そして「私に言わないで、のアリア」 (Non mi dir, bell’idol mio)でも力強く自信に満ちた歌声でコロラトゥーラを披露し観客から拍手が湧きあがった。マゼット役のレオン・コサヴィッチは目で気持ちを訴えることのできる歌手だ。ツェルリーナ役のルイーズ・オルダーは容姿も可愛らしくコケティッシュな上に温かみと優しさが伴った声だった。「ぶってよマゼット、のアリア」(Batti, batti, o bel Masetto) を歌った時もチャーミングだったが、「薬屋の歌のアリア」(Vedrai, carino) を歌いマゼットを手玉に取るときの彼女の魅力には、私まで吸い込まれそうだった。ドンナ・エルヴィーラ役のミルト・パパタナシュはドン・ジョヴァンニを憎みたくても憎み切れないもどかしさに苦しむ女を熱演し、見ていて心苦しいほどだった。

ハートムット・ヘンチェンの指揮は左の指の細かい動きが特徴的で、ロイヤル・オペラ・ハウスのオーケストラからドラマティックな演奏を引き出していた。弦楽の音色の美しさも『ドン・ジョヴァンニ』の妙味だと思うが、特にオペラの最後でドン・ジョヴァンニが騎士団管区長に地獄に引きずり込まれる場面でのヴァイオリンは、絶壁から流れ落ちる滝水のような勢いがあり、その迫力に息をのんだ。感動してコンサート・マスターのセルゲイ・レヴィタンに幕後に座席から投げキスを送ったら彼も満足顔で投げキスを送り返してくれた。彼らの演奏がもたらしてくれた感動とそれに対する感謝が彼に伝わったと思ったらこの上なく嬉しかった。

『ドン・ジョヴァンニ』の人気の高さから言っても完成度の高さから言ってもこの作品はすぐにリバイバルするのではないかと思う。今度はどんな歌手が出演するのかが楽しみだ。次回のリバイバルの際もぜひ観に行きたい。

ドン・ジョヴァンニ(アーウィン・シュロット)と レポレッロ(ロベルト・タリアヴィー

©ROH 2019. Photo: Mark Duet

ドンナ・アンナ(マリン・ビストレム)

©ROH 2019. Photo: Mark Duet

ドン・ジョヴァンニ(アーウィン・シュロット)と ドンナ・エルヴィーラ(ミルト・パパタナシュ)

©ROH 2019. Photo: Mark Duet

ツェルリーナ(ルイーズ・オルダー)とマゼット(レオン・コサヴィッチ)

©ROH 2019. Photo: Mark Duet

プロダクション・イメージ ©ROH 2019. Photo: Mark Duet

ドン・ジョヴァンニ(アーウィン・シュロット)と騎士団管区長(ペトロス・マグラス)

©ROH 2019. Photo: Mark Duet

Miho Uchida/内田美穂

聖心女子大学卒業後外資系銀行勤務を経て渡英、二男一女を育てる傍らオペラ学を専攻、マンチェスター大学で学士号取得。その後UCLにてオペラにおけるオリエンタリズムを研究し修士号取得。ロンドン外国記者協会会員(London Foreign Press Association)。ロンドン在住。ACT4をはじめ、日本の雑誌にて執筆中。https://www.mihouchida.com/

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